1992年のセリーグは、開幕から波乱の幕開けとなりました。前年度優勝の広島東洋カープを筆頭に、巨人、阪神、ヤクルトが激しい首位争いを展開しました。特に注目を集めたのは、4月に8連敗を喫するなど5月に最下位に沈んだ巨人の復活劇でした。
6月に入ると、巨人が驚異的な勢いを見せます。10連勝を皮切りに、わずかな敗戦を挟んで4連勝、さらに7連勝と、まさに「巨人軍の星」の如く輝きを放ちました。この猛追により、巨人は前半戦を首位で折り返すという劇的な展開を見せたのです。
オールスターゲーム明けから、セリーグの様相は一変します。ヤクルトスワローズが巨人との直接対決で3連勝を飾り、首位の座を奪取。8月に入ると7連勝を記録し、一時は2位に最大4.5ゲーム差をつける快進撃を見せました。
しかし、野球の神様は残酷です。9月に入るとヤクルトに長いスランプが訪れ、9連敗という苦しい時期を経験します。この隙を突いて、阪神タイガースが7連勝で首位に躍り出る展開となりました。
ここで注目したいのが、阪神の躍進を支えた要因です。この年、本拠地・甲子園球場のラッキーゾーンが撤廃され、外野が広くなったことが大きな影響を与えました。亀山努や新庄剛志といったスピードスターが台頭し、チームに新たな戦力をもたらしたのです。
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シーズン終盤に差し掛かると、セリーグはまさに混沌の極みを迎えます。9月12日の時点で、首位ヤクルトから阪神がゲーム差なし、巨人が0.5差、広島が2差という信じられないほどの接戦状態となりました。
この激戦を制したのは、最後に底力を見せたヤクルトでした。起爆剤となったのは、4年ぶりにマウンドに復帰した荒木大輔投手の活躍でした。9月24日の広島戦で見せた渾身の投球は、チームに新たな活力を与えました。
最終的に、ヤクルトは69勝61敗1分け、勝率.531という低勝率ながらも優勝を果たします。これは、V9最後の年となった1973年の巨人の.524に次ぐ低勝率での優勝記録となりました。
1992年のセリーグには、数々の名場面が生まれました。中でも特筆すべきは、ヤクルトの荒木大輔投手の復活劇です。
9月24日の広島戦(神宮)、2-3と1点ビハインドの7回2死一塁の場面で登板した荒木は、2度にわたるトミー・ジョン手術、椎間板ヘルニアを乗り越えての4年ぶり、1541日ぶりのマウンドでした。赤ヘルの主砲・江藤智に対し、初球135キロの直球で内角をえぐり、最後はフォークボールで空振り三振に仕留めるという見事な投球を見せました。
この荒木の活躍が呼び水となり、ヤクルトは逆転勝利。その後も荒木は10月3日の中日戦(神宮)に先発して7回を2安打無失点に抑えるなど、チームの優勝に大きく貢献しました。
1992年のセリーグは、プロ野球史に残る激戦となりました。この年の混戦は、以下のような影響と教訓を残しています:
この1992年のセリーグは、野球の醍醐味である「最後まで何が起こるかわからない」という魅力を存分に体現したシーズンとして、今でも多くのファンの記憶に残っています。また、この年の経験が、その後のセリーグの戦い方や各チームの戦略に大きな影響を与えたことは間違いありません。
プロ野球の歴史に残る激戦となった1992年のセリーグ。この年の混戦は、野球の魅力を再確認させ、ファンに忘れられない感動を与えました。そして、この経験は次世代の選手たちにも受け継がれ、日本のプロ野球の発展に大きく寄与したのです。