1934年12月26日、丸の内の日本工業倶楽部で大日本東京野球倶楽部(読売ジャイアンツの前身)の創立総会が開催されました。この日は、現在も「巨人軍創立記念日」として球団に刻まれています。
創設の背景には、同年11月に来日した全米選抜野球チームとの対戦が大きな反響を呼んだことがありました。特に11月20日、静岡県草薙球場で行われた試合で、沢村栄治投手がルー・ゲーリッグの本塁打による1失点に抑える好投を見せたことが、日本のプロ野球球団設立への機運を高めたのです。
創立メンバーは、全日本チームを中心とした19名で構成されました。当初の球団事務所は、数寄屋橋の菊正ビル(現在の東映会館)に置かれました。
1935年1月14日、静岡草薙球場で初のキャンプインを行いました。そして1月26日には、球団結成後初の試合を名鉄と行い、14-1で圧勝しています。
2月14日には、第1回アメリカ遠征のため、市岡総監督らが秩父丸で横浜を出港しました。この遠征中、現地マネジャーのフランク・オドールの提案により、「東京ジャイアンツ」という名称が採用されました。
オドールは「大日本東京野球倶楽部」という名称がわかりにくいと指摘し、アメリカ最大の都市であるニューヨークの3チーム(ジャイアンツ、ドジャース、ヤンキース)の中から、ジャイアンツの愛称を薦めたのです。
読売ジャイアンツ公式サイトの年表で、1930年代の詳細な出来事を確認できます。
創設当時の選手陣には、後に日本野球の礎を築くことになる名選手たちが名を連ねていました。特筆すべきは、沢村栄治投手の存在です。沢村は、プロ野球黎明期を代表する投手として、現在も「沢村賞」という形でその名を残しています。
また、三原修は1934年6月6日に職業野球の第1号契約選手となり、巨人軍の歴史に名を刻みました。
1935年には、川上哲治、吉原正喜の熊本工バッテリー、千葉茂(松山商)らが入団し、球団の基礎を固めていきました。
読売ジャイアンツの創設は、日本プロ野球の歴史において極めて重要な出来事でした。1936年2月5日には、丸の内・日本工業倶楽部で「日本職業野球連盟」の創立総会が開かれ、プロ野球リーグの基盤が整備されていきました。
同年4月29日には、米国遠征中の巨人軍を除く6球団で第1回日本職業野球リーグ戦が甲子園球場で開幕。7月1日には連盟結成記念全日本野球選手権試合が始まり、これが現在のプロ野球公式記録の起点となっています。
巨人軍の創設は、日本のプロスポーツビジネスのモデルケースとなり、他のプロ野球球団の設立や、さらには他のスポーツのプロ化にも大きな影響を与えました。
1934年の創設から90年、読売ジャイアンツは日本プロ野球界を牽引し続けてきました。1965年から1973年にかけての9年連続日本一(V9)や、王貞治、長嶋茂雄といった伝説的選手の活躍など、数々の偉業を成し遂げています。
2024年、創設90周年を迎えるにあたり、球団は特別な取り組みを行っています。例えば、ファンが選ぶ歴代ベストナインの投票企画を実施し、90年の歴史を振り返るとともに、ファンとの絆を深める機会としています。
読売ジャイアンツ90周年記念の特設ページでは、記念ロゴや様々な企画の詳細を確認できます。
また、90周年を記念して制作されたロゴには、「伝統と挑戦」という巨人軍の普遍的コンセプトが表現されています。ゴールドを基調としたデザインには、「努力を続け永久に輝き続ける」という意味が込められており、90周年は通過点であり、これからも挑戦し続けるという球団の姿勢が示されています。
創設以来、読売ジャイアンツは常に日本野球界のリーダー的存在として、野球の普及と発展に貢献してきました。90年の歴史は、単なる一球団の歩みを超えて、日本のプロスポーツ全体の発展の歴史でもあるのです。
これからも、伝統を守りながら新たな挑戦を続ける読売ジャイアンツの姿に、多くのファンが魅了され続けることでしょう。100周年、そしてその先の未来に向けて、巨人軍の歴史は新たなページを刻み続けていきます。